2009年に創業400周年を迎えた我が社は、文字通り400年の間、ただひと筋に太鼓を創り続けてきた。その太鼓について、今でこそ舞台で演奏される「楽器」としての認識が大きいが、はるか昔、太古の時代には、中が空洞になった木の幹に動物の皮を張ったり、野牛の角を打ち鳴らしたりして、仲間に危険を知らせたり、雨乞いや悪魔払いなど天の神様に願い事をする時の呪具として使われたのが始まりといわれる。やがて時代が下るととともに、豊作や豊漁を神に感謝する祭りの場に太鼓は欠かせないものとなり、念佛踊りや芝居の伴奏にも使われるようになってきた。そして太鼓が単なる伴奏の道具でなく、れっきとした主役の楽器として舞台の上で演奏されるようになったのは、なんと、1950年半ば以後のことなのだ。まだ70年の歴史だ。つまり芸能としての歴史は、まだ「よちよち歩きの赤ちゃん」といった程度。それゆえ、太鼓を志す皆さんには、ぜひとも「芸能」としての太鼓の道を切り拓いていって欲しい。そして太鼓が「日本の伝統ある楽器」という位置づけに見合う「日本の伝統ある芸能」となるよう頑張って欲しいと心から願っている。
さて、少し話が戻るが、太鼓は祭りの場に欠かせないと書いた。その祭りで打たれる太鼓は、山車にのせて巡行することが多い。ならば太鼓だけでなく、山車も製作して欲しいという依頼が、数年前から寄せられることが多くなった。しかし太鼓ひと筋にやってきた我が社、そうした技術を持たないためにこれまでは辞退していたが、創業400年を契機に新しい技術にチャレンジするのも悪くないと判断。2年前から山車・屋台の技術導入をはかり、彫金師、彫刻師、金箔工芸師、足回り職人、電気工事、銅版屋根葺き職人などの皆さんにも協力を求め、ついに2012年、試行錯誤と技術改良を重ねた末に、埼玉県熊谷市荒川区から発注を受けた「うちわ祭り」の山車が完成した。
5月21日、荒川区の有志20人の皆さんが、完成した山車の検分と祭りポスター用の写真撮影に来社。実際に山車を曳いて巡行の具合を試したり、夜には竿燈を灯してこうこうと輝く提灯の明かりの中で太鼓や鉦の囃子を奏で、祭り本番を思わせる賑わいとなった。ご近所の皆さんも見物に来られたほどで、「苦労は多かったが、挑戦して本当に良かった」との思いがあらためて胸にこみあげた。同時に、社史に残る初めての山車建造において棟梁として全力を尽くし、職人たちを牽引してくれた世戸洋一工場長をはじめ、関わってくれたすべての皆さんに、心から深く感謝した。
この熊谷の山車製作の実績に自信を得、2019年には北海道江差町の「姥神大神宮渡御祭(うばがみだいじんぐうとぎょさい)」の山車を納品。7月の祭礼本番では山車建造実行委員会事務局長の越前秀一さんから「この祭礼は370年の歴史ある祭り。百年に一度あるかないかの山車建造事業に、事務局長として関わることができて光栄。将来、山車巡行を担う息子に自慢できる。山車は祭り以外の時は町内の山車会館に展示する予定で、氏子の皆さんからは、山車が素晴らしい! 山車に飾った武田信玄もかっこいい! と褒められた」と嬉しいお言葉をいただいた。さらに同10月には兵庫県の団体に銅板葺・入母屋造りの大屋根をのせた山車2基を納品。これからも太鼓づくりに加えて多様な技術を蓄積し、若い職人たちに一回りも二回りも大きく育って欲しいと念じた年だった。
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