祖母のきくは、煙管(きせる)でたばこを吸う人だった。その煙管を掃除するのに、蔵に押し込んであった古文書を手当たり次第に紙縒(こより)にして使っていた。祖母が亡くなりしばらくして、昭和32年ごろだったろうか、当時、石川県教育研究所で加賀藩の職人の調査をされていた田中喜男先生が訪ねて来た。何日もかけて丁寧に倉の古文書に目を通され、中の何通かはノートに書き写して帰られた。また田中先生と前後して大阪の大学から来られた上杉聡先生は、文書を一幅一幅広げてカメラに納めた。そして帰り際、思いがけないことを言われた。文書には、浅野家(直系ではない)の始祖と伝わる左衛門五郎と次郎が慶長14年(1609)に播磨の国からやってきたこと、皮革職人として加賀藩前田家に大変重用されていたことなどが記されているという。それまで浅野の家は漠然と「代々続く」とだけ伝えられ、その代々の始まりがいつなのかは判然としなかった。それがなんと、江戸時代初期の慶長年間だったとは。山と積まれていた古文書を読み下せるような学才のある先祖がいたならとうにわかっていたことだろうが、悲しいかな、紙縒にして煙管を掃除するような家である。あと50年もすれば浅野の家が成り立ちから400年を迎えることを知ったのは、その時が初めてだった。ちなみに、両先生によって我が家のルーツを知り得た肝心のその文書は、その後の不始末により紛失した。だが、お二人がご高著やフィルムに保存してくださったのと、加賀藩の歴史を記した『加賀藩史料 第貳編』に、二代藩主前田利長が慶長16年、左衛門が藩に上納した革の品質が大変すぐれているので、褒美を授けるとして左衛門五郎に宛てた文書の写しが残っているのが、せめてもの幸いだ。なお、文末に記されている「瑞龍公」とは、利長公の別名だ。
まんそくのよし申候て かかわたまかりこし、かわともかきつけのことくあけ候
たひら二つ 銀子壱まいつかわし候間 わたし申へく候
慶長拾六年 八月八日 瑞龍公 印
さへもん
中学のころまでは社会科の年表を広げて江戸時代をさし、このあたりに我が家の原点があるのかとたわいもなくワクワクするばかりだったが、家業を継いでから意識が芽生えた。加賀藩に召されたとはいえ、決して順風満帆ばかりではなかった歳月、十六代にわたる先祖が歯を食いしばって技を守り伝えてきた浅野の太鼓を、もっと世の中の人に知ってもらいたい。もっとたくさんの人に使ってもらいたい。もっと「浅野」の名を広めたい。日に日に強まるそんな思いの先には、いつも「400年」という数字があった。そうした思いもあり、浅野の太鼓のキャッチフレーズを「この道四百年」と定めた。社業の実績をアピールするとともに、自分自身を鼓舞するキャッチフレーズでもあった。
そして2009年、創業から数えて400年の節目がついにやってきた。二度と遭遇することのない、400年という道しるべ。思えばなんと遠い道のりだったろう。皮革技術の後進地だった加賀藩に対し、先進技術の伝導と産業振興を目的として先進地の播磨から遣わされた左衛門五郎と次郎の熱意。それから400年にわたる代々の紆余曲折。そしてようやく大太鼓シェアナンバーワン企業として国内随一の太鼓メーカーと認知されるようになった現在の感謝。さまざまな思いを包含し、6月、1日から5日まで、「浅野の太鼓創業四百周年記念事業」を挙行した。
太鼓展示会をはじめ、太鼓コンサート、屋外ミニライブ、各種の太鼓ワークショップ、大抽選会、模擬店、そしてホテルの宴会場では祝賀の宴。宴には昼夜に分けて200名以上の顧客がかけつけてくださり、ここでも余興として国内各地のさまざまな太鼓芸が披露された。5日間にわたるどのイベントにも人々の笑顔があふれ、私はただただ嬉しかった。有り難かった。その大きな感謝を八百万の神々に報告すべく、社員全員で伊勢神宮に記念参拝したのも、今は懐かしい思い出となっている。
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