1977年(昭和52)、府中の大國魂神社二之宮に口径6尺2寸(約1.9m)の日本一(当時)の大太鼓を納めたことは前に記した。それ以来、我が社には全国の神社や観光施設、太鼓団体などから大太鼓の注文が相次いだ。口径5尺(約1.5m)以上の太鼓だけでも主なところで、明治神宮の5尺、霧島九面太鼓の5尺、近藤産興の6尺5寸、大國霊神社御先払太鼓の6尺6寸、高山まつりの森7尺と6尺9寸、大國霊神社三之宮の6尺、稲荷森稲荷神社の6尺など、今思い出しても、我ながらよく製作したものだ。そして1994年(平成6)、東京の芝閒稲荷神社に5尺2寸の大太鼓を奉納。その製作の様子がテレビ番組『技ありニッポン!』で全国に紹介された。この番組は日本各地のさまざまな分野の職人たちを訪れ、たぐいまれな技術や作品を紹介するもの。撮影にあたってはおよそ2週間にわたり制作クルーが早朝から夜半まで入念な取材を行い、太鼓の製作工程をつぶさに収録。撮影が終わるころには職人たちとも打ち解け、すっかり現場にとけこんでいた。おかげで放映された番組はドキュメンタリーでありながら、ほのぼのと血の通ったあたたかさが感じられた。もちろん反響も大きく、全国からさまざまな激励が寄せられた。この番組によって浅野太鼓が全国区の企業に一歩近づいたことは間違いない。
(写真上:高山まつりの森)
翌95年1月17日。阪神淡路大震災発生。この地域には顧客や知人が多く、テレビで現地の惨状を見るにつけ安否が気遣われた。幸い訃報は届いてこなかったものの、次第に明らかになっていく被害の大きさを知るにつけ胸が痛んだ。だがこの震災を契機に、たとえば神戸の『和太鼓松村組』を筆頭に被災地慰問を目的としたいくつかの太鼓チームが結成され、多くの被災者を元気づけたことで、あらためて「太鼓の力」、いや「太鼓の底力」を実感した。
96年11月、ささやかな私設ホール『浅野−EX』を自宅敷地に開館。太鼓にこだわらず、これまで培った各界の人々との人脈をいかし、文化的な交流の場をつくりたかった。オープニングでは現代美術作家で現東京藝大学長・日比野克彦氏によるペインティング作品群を展示。『仮に棲むものたち』のタイトルで、キャンバスのタテ2.12m、ヨコ1.675mの大作10点を3方の壁面に設置。およそ1カ月にわたる展覧会に続き、インテリアデザイナー・内田繁氏と金沢の陶芸家・大樋年男氏とのコラボレーションによる茶室展示と茶会『茶の湯の現代』、アメリカのビデオアーティスト・ナム・ジュク・パイク氏のインスタレーション『NAM JUN PAIK』などを次々に開催。変わったところではファッションデザイナー・早川タケジ氏による歌手・沢田研二の舞台衣裳展なども開催し、これらの催事によりさらに新しい人脈が開けた。それもひとえにホールの運営を一任した現浅野太鼓文化研究所理事・小野美枝子の"こわいものしらず"の奮闘によるところが大きい。感謝している。 (写真右上:茶室展示)
(写真上:ナム・ジュン・パイク展)
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