昭利の一本道 [13] 37歳、経営を引き継ぐ

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 昭和57年元旦の日経新聞に父の記事が掲載されたことは、予想以上の反響をよんだ。さっそく翌日から、大太鼓の注文や問い合わせが相次いだ。中でも思い出深いのは、名古屋で「何でも貸します」のキャッチフレーズで業績を上げていたイベント会社『近藤産興近藤成章社長』さんから製作依頼を受けた6尺5寸(約1.95cm)の大太鼓。およそ2年をかけて完成した大太鼓の胴の中に金箔張りと、胴の中央に金箔で大きく描いた「ん」の文字は、当時119歳で長寿世界一と話題になった泉重千代翁の揮毫。

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巨大な漆塗りの御所車に鎮座したきらびやかな太鼓は、テレビや新聞で賑々しく紹介された。通称『「ん」』太鼓」は59年9月に納品したが、父はその3カ月前の6月に75歳で他界。「ん」太鼓に続き、新聞で述べた抱負が実現し「世界一の大太鼓」として翌60年に奉納した大國魂神社の6尺6寸御先拂太鼓ともども、完成を見ることなく旅立ったのはさぞや無念だったろう。
(写真右:6尺6寸大太鼓 御先拂太鼓 大國魂神社) 

 ほとんど家庭を顧みず、太鼓づくりもいちがいを通した父で、心から尊敬できたわけではなかったが、亡くなってみるとやはり心細かった。「自分に会社を引っ張っていけるだろうか」。亡くなる少し前、死期の近いのを悟った父から実印を渡され、経営を引き継いではいたが、この先うまく運営していけるのか。太鼓づくりの技術も、肝心な部分は自信がなかった。また父独特の考え方により、借金もあった。「子供には財産より借金を残すに限る。借金は人を働かせる」と。無理に金沢に買い求めた土地が恨めしい。 

 だが弱音を吐いているヒマはなかった。太鼓はますます人気が高まり、かつて小口さんが言ったように、世界的な広がりを見せてきた。『鼓童』を退団してソロの打ち手となった林英哲さんが、太鼓奏者として日本で初めてアメリカのカーネギーホールに立ったのはこの年だ。チューニングに同行した私も、日本の太鼓にアメリカの観客が歓喜する光景が誇らしかった。

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(写真左:林英哲氏とエンパイアビルにて 写真右:打ち上げ)

 それにつけても、かつてないまぶしい陽が太鼓に当たり始めたことは間違いないと37歳の私は確信した。太鼓づくりの家に生まれ、これからも太鼓というただひと筋の道を歩いていくだろう私は、40代、50代、60代になった時、どんな風景を見ているのだろう。そう思うと未来に対して何一つ設計図を描いていないことに一抹の不安を覚える一方、自分の発想次第でこれまで誰もやったことのない冒険にも挑戦できるのだと、胸がわくわくするのだった。