女流太鼓の草分け『みやらび太鼓』の川田公子さんに初めてお目にかかったのも、発足して間もない日本太鼓連盟の講習会場だった。昭和14px;">年に日劇の『春の踊り』で太鼓奏者としてデビューされた川田さんのお顔はたびたびテレビで拝見していたが、実際に目の前でほほえんでおられる女性はテレビで見るよりずっと美しく、華奢だった。「この人が、本当にあの力強い太鼓を打つ人だろうか」。私はどぎまぎしながら挨拶を交わし、いつかこの人の太鼓をつくってみたいと強く思った。
その日は意外に早くやってきた。川田さんも私も若く、怖い物知らずだった。川田さんのアイデアで、いくつかの太鼓を組み合わせた二面太鼓や三面太鼓、あげくは一枚革をそのままホリゾントに吊り下げた公子太鼓や大団扇太鼓など次々に型破りな太鼓に挑戦。私はゼロから始めるモノづくりの面白さを知った。
川田さんはそれらの太鼓を使い、舞台に芸術作品の花を咲かせた。それまで太鼓の舞台といえば、数曲の楽曲を順番に演奏する単純な構成だったが、川田さんはリサイタルごとにテーマを設け、内容に合わせた音づくりとストーリー性を持たせた進行によって大きな一つの物語を紡いだ。そうした手法はその後多くの演奏者に取り入れられ、総じて太鼓舞台の芸術性を高めることになった。昭和57年、第2回リサイタルで文化庁芸術祭優秀賞を受賞。太鼓奏者として日本で初めての快挙だった。
一方、佐渡では、昭和46年に旗挙げした『佐渡の國鬼太鼓座』が10年間の活動を経て解散。代表の田氏と座員たちの考え方の乖離が原因と聞いた。田氏は太鼓と鬼太鼓座の看板を持って佐渡を離れ、残った座員たちは『鼓童』を設立。代表になった「ハンチョウ」こと河内敏夫さんからふたたび太鼓一式の注文を受け、私は同年代の若者たちの行く手を太鼓づくりの立場から応援しようと心に決めた。
さて、57年といえば、我が家の家宝となっている新聞がある。昭和57年(1982)1月1日付けの日本経済新聞。その24面の紙面中央に、白抜きで大きく「景気よくドンと〝世界一〟」の大見出し。横に「巨大太鼓づくりに「新年の計」浅野義雄」とある。昭和52年、府中の大國魂神社二之宮に,口径6尺2寸(約1.9m)という日本一の大太鼓を納めていたが、今年はさらにそれを上回る日本一、いや世界一の大太鼓をなんとしてもつくりたいと、年頭にあたって大太鼓製作に意欲を燃やす父の気概が意気揚々と紹介されている。しかも驚くべきは、父の記事を囲むそうそうたる顔ぶれ。元旦にふさわしく、干支の戌を描いた挿絵は日本画の大家・奥村土牛の作。現在も連載が続いている『私の履歴書』は経済団体連合会名誉会長の土光敏夫、『交遊録』には日本画の橋本明治が登場。下段の連載小説『狼が来たぞ』は芥川賞作家の古山高麗雄。そしてサントリーの広告に至るまで、新日本製鐵社長の武田豊の寄せ書きという豪華さで、期せずして父の一世一代の晴れ姿となった紙面だった。
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