昭利の一本道 [7] 田耕氏との出会い

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 こうして太鼓が全国的に注目され始めた昭和45年のある夜。見知らぬ男が、ふらりと我が家にやってきた。無遠慮な視線で工場の中を眺め回すと、いきなり世界地図を広げ「太鼓で世界を回る。太鼓一式つくってもらいたい」と男は言った。洋服の上に綿入れのドテラを羽織ったうさんくさい身なりで、どんな職業なのか見当もつかない男だったが、その口から出た言葉は父や私の度肝を抜くには充分だった。「太鼓を演奏して世界を回るとは、何を夢のようなことを」とあきれる反面、「そんなことが実現したら、なんと素晴らしいだろう」と私たちは男を見つめた。そして次の言葉にまた私たちは驚いた。「ただし、金はない」と。

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聞けば、我が家に来る前に東京浅草にある太鼓の老舗店を訪れ、同じく「金はないが太鼓が欲しい」と談判したところ、あっけなく断られたという。それはそうだろう。そこで男は考えあぐね、以前小耳にはさんだ北陸で細々と太鼓をつくっている我が家のことを思い出し、その足で松任までやってきたそうだ。男の突然の無謀な申し出に父はしばらく思案していたが、やがて「よかろう。太鼓をする人間に悪人はいない」と、出世払いを約束させて太鼓一式つくることを引き受けた。はらはらしながらなりゆきを見ていた私も、父の言葉にほっとする思いがした。本当にこの男の言う通り、世界中に浅野の太鼓が鳴り響く日が来たら、私の未来も変わる気がしたからだ。そしてその予感は、やがて的中することになる。

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(写真左より:田耕氏、永六輔氏)

男の名は田耕(でんたがやす)。初めて日本の太鼓を海外の舞台で披露し、小澤征爾氏や石井眞木氏など世界的に知られる音楽家たちの目を太鼓に向けさせた人物。そして現在の舞台芸能としての太鼓演奏の礎を創り上げた『佐渡の國鬼太鼓座』の主宰者。こうしてはからずも彼らの太鼓をつくったことが契機となり、我が家も新しい試みに次々と挑戦することになった。まず手始めに、サントリー株式会社がスポンサーとなって鬼太鼓座に寄贈したケヤキの3尺8寸の大太鼓を製作。続いて同じく寄贈のケヤキ長胴2尺4寸の二番太鼓、2尺3寸の三番太鼓。さらに鬼太鼓座自前の6尺の桶胴太鼓、3尺の平太鼓と、次々に大型の太鼓をつくったことが新聞などで話題になり、翌年には北海道登別の第一滝本館や東京都府中市の大國魂神社など、それまで手の届かなかった依頼主からの注文が立て続けに舞い込むようになった。また田氏を介して、鬼太鼓座の立ち上げにかかわった放送作家の永六輔氏や、民俗学者の宮本常一氏、サントリー社長の佐治敬三氏、俳優の小沢昭一氏など、それまでまったく接点のなかった多くの文化人の知己を得ることになった。それらの人々と交流を重ねるにつれて、機械のことや太鼓づくりの知識はあっても文化や教養にはとんと縁遠かった私の無知な脳みそは、人間が豊かに生きていくためには心にも栄養が必要なことを知った。

 振り返れば、出世払いと約束した太鼓一式の代金は完済されないままに田氏は逝ってしまったが、私は金銭に換えがたい多くの宝を田氏からいただいた。