昭利の一本道 [2] 出生〜小学生時代

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 生まれたのは昭和22年(1947)1月21日。石川県松任市福留町148番地で太鼓づくりを営む、父義雄、母小春のもとに次男として誕生。義雄37歳、小春35歳。義雄は家業のかたわら地域の消防団員を務め、仕事を済ますと宵の口から団員仲間と飲みに繰り出すのが常で、昭和59年(1984)に他界するまで夕食を共にした記憶はほとんどない。

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 その義雄に18歳で嫁いだ小春は福井県の鶴賀の生まれ。10歳の時に相次いで両親を亡くし、以来大阪に子守奉公に出るなど、だいぶ苦労を重ねたと聞く。嫁に来てからも苦労の連続で、遊び人気質で家事を顧みない義雄にかわり、一人で小作の田畑を耕し、太鼓用の皮をなめし、三人の子を育てた。今振り返ると幼児期のことはあまり憶えていないが、小柄な背中をかがめていつも農作業に精を出していた小春の姿と、少々の悪さをしても「あき、あき」と慈しんでくれた笑顔だけは心に残っている。

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 ものごころついてからのことは、断片的にではあるが、今もはっきり思い出シーンがいくつかある。当時、胴づくりの手伝いに来ていた二人の職人のうちの「コロ場の兄ちゃん」が東京に出て、三味線の胴の内側に綾彫りをほどこす機械をつくるのに成功したと聞いてみんなで喜んだこと。4年生の時に学校から帰ると大阪大学の文化人類学の先生という人がいて、我が家に残っていた古文書を一幅ずつカメラにおさめていたこと。「おじさん、何してるの?」とたずねると「この文書には300万円の価値がある。だからマイクロフィルムに保存するんだよ」と。「ふーん」と言ったものの、4年生の子供に300万円という金額は現実味がなく、それ以上の興味は湧かなかった。だから、後年、我が家が江戸時代の慶長年間から続く家だという何よりの証拠がそれらの文書に記されていたことを知り、おおいに驚いたものだ。また6年生のある日、早朝6時ごろに金沢の能作漆器店の主がやってきた時「おじさん、なんでこんなに朝早く来るんや?」とたずねると「早起きは三文の得だよ」と言われたこと。子供ながらも「そうか、早起きはトクなんだ」と妙に納得し、以後、その言葉はつねに私の商売の上での指針の一つとなった。注文を受けた太鼓が完成するたび、早朝5時でも6時でも納品に向かい、朝一番にまっさらの太鼓を受け取った客の嬉しそうな顔が、私のその日の力の源になった。

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 かつて近隣には数軒の太鼓屋があったというが、戦時中の物資統制により皮の入手が困難となり、次々に廃業。私が小学生のころには我が家「浅野太鼓店」ただ一軒だけとなっていた。とはいえ、太鼓は神楽太鼓か虫送りの桶胴太鼓が月に一つ売れれば良い方。当然暮らし向きは厳しく、両親は日々の糧を得るため、三味線の革張り、革靴の製造や修理、カバンの修理、井戸用手押しボンプの吸い込み口の革交換など、やれることは何でもやった。遊びたい盛りの年頃にもかかわらず私も手伝いを言いつけられることが多く、農作業や中でも皮の臭いに閉口しながら桶胴のロープ締めを手助けする作業はもっとも嫌な仕事だった。