太鼓づくりの家に生まれておよそ70年。これまで太鼓に関わるさまざまなイベントを手がけてきた私だが、数年前からまた新しい構想が胸の中に芽生えていた。太鼓の作曲コンクールの開催だ。

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 現在、太鼓の演奏曲は大きく二つに分かれている。一つは、長い時間をかけて地域に根を下ろした土着の太鼓。中には100年も200年も受け継がれてきた伝統の曲も数多い。そしてもう一つは、1970年前後の「ふるさと創生」の機運や、太鼓の演奏をコンサートとして成立させた「佐渡の國鬼太鼓座」の出現に刺激され、伝統にも地方色にも縛られず新しく作曲された創作の太鼓だ。この創作太鼓の氾濫により全国に太鼓チームが急増したわけだが、いかんせん、太鼓の楽曲を創作するのは、そう簡単なことではない。まず、一般の音楽と異なり、太鼓曲を作曲する教育は、それまでの日本には皆無だった。そして作曲を志すにしても、太鼓の種類や大きさにより音色が異なり、音階もない太鼓を、どう組み合わせ、どう強弱をつけ、どう物語を作るか。多くのチームはそうした難題に突き当たり、おのずから創作太鼓の楽曲は、伝統曲をアレンジしたものや、どこかで聞いて耳に残ったフレーズをコピーした曲など、どのチームも似たり寄ったりの楽曲が流通しているのが現状だ。だが、こうした状況では、太鼓音楽は後世に残るのは難しい。発祥から300年続いている歌舞伎のように、そこから発生した邦楽囃子のように、そしてヨーロッパのクラシック音楽のように、太鼓の楽曲も一つの芸能としての質の高さを確立しなければ、日本独自の文化として次の世代に手渡していくのは難しいのではないか。そうした思いから、まずはすぐれた楽曲の創作が何よりも必要であり、そのために広範に人材と才能を求める手段として、ぜひとも太鼓楽曲のコンクールをこの手で実現したいというのが、私の切なる願いだった。そしてその時に、名実ともに全権を委ねるのは、林英哲氏しかいないと確信していた。

 そんな私の一方的な熱を林氏にぶつけ、ようやくご理解をいただき、石川県の補助金も獲得し、本格的な準備に入ったのが2015年の春。同時に告知・広報、応募曲の募集、コンクール進行の調整など、さまざまな要素を時間と駆け足で進め、2016年7月27日、世界で初めての太鼓のための作曲コンクール「林英哲杯太鼓楽曲創作コンクール」の第1回を開催した。

 太鼓界第一人者の林英哲氏がただ一人審査員となり、自身の目と耳で審査するコンクールに、どんな曲が選ばれるのか。太鼓芸能の世界を創り上げ、作品づくりにおいて秀でた完成と才能を兼備している演奏者ならではの視点に大きく期待した。映像による一時審査を通過した18組の演奏曲に対し、「曲」「リズム」「打力」「創造力」「型」「アンサンブル」の6項目評価により、独奏作品部門青少年の部、独奏作品部門一般の部、団体作品部門の3部門から優れた楽曲が顕彰された。また表彰式に続く林氏の講評にも含蓄が多く、太鼓に関わりのある人にもない人にも、大きな感銘を与えたようだ。「やって良かった」。

 コンクールは以後3回継続し、3年目の終了時には第1回から第3回までの受賞曲全8曲を集積した楽譜集を発刊した。コンクーを開催したことにより、私自身多くのことを学んだとともに、太鼓の演奏者をはじめ、太鼓に関心を持っていてくださる皆さんにも太鼓曲の創作について何らかの意識を与えたと自負している。

昭利の一本道 [24] 創業四百周年記念事業を挙行

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祖母のきくは、煙管(きせる)でたばこを吸う人だった。その煙管を掃除するのに、蔵に押し込んであった古文書を手当たり次第に紙縒(こより)にして使っていた。祖母が亡くなりしばらくして、昭和32年ごろだったろうか、当時、石川県教育研究所で加賀藩の職人の調査をされていた田中喜男先生が訪ねて来た。何日もかけて丁寧に倉の古文書に目を通され、中の何通かはノートに書き写して帰られた。また田中先生と前後して大阪の大学から来られた上杉聡先生は、文書を一幅一幅広げてカメラに納めた。そして帰り際、思いがけないことを言われた。文書には、浅野家(直系ではない)の始祖と伝わる左衛門五郎と次郎が慶長14年(1609)に播磨の国からやってきたこと、皮革職人として加賀藩前田家に大変重用されていたことなどが記されているという。それまで浅野の家は漠然と「代々続く」とだけ伝えられ、その代々の始まりがいつなのかは判然としなかった。それがなんと、江戸時代初期の慶長年間だったとは。山と積まれていた古文書を読み下せるような学才のある先祖がいたならとうにわかっていたことだろうが、悲しいかな、紙縒にして煙管を掃除するような家である。あと50年もすれば浅野の家が成り立ちから400年を迎えることを知ったのは、その時が初めてだった。ちなみに、両先生によって我が家のルーツを知り得た肝心のその文書は、その後の不始末により紛失した。だが、お二人がご高著やフィルムに保存してくださったのと、加賀藩の歴史を記した『加賀藩史料 第貳編』に、二代藩主前田利長が慶長16年、左衛門が藩に上納した革の品質が大変すぐれているので、褒美を授けるとして左衛門五郎に宛てた文書の写しが残っているのが、せめてもの幸いだ。なお、文末に記されている「瑞龍公」とは、利長公の別名だ。

まんそくのよし申候て かかわたまかりこし、かわともかきつけのことくあけ候 

たひら二つ 銀子壱まいつかわし候間 わたし申へく候

慶長拾六年 八月八日       瑞龍公 印

    さへもん

              

 中学のころまでは社会科の年表を広げて江戸時代をさし、このあたりに我が家の原点があるのかとたわいもなくワクワクするばかりだったが、家業を継いでから意識が芽生えた。加賀藩に召されたとはいえ、決して順風満帆ばかりではなかった歳月、十六代にわたる先祖が歯を食いしばって技を守り伝えてきた浅野の太鼓を、もっと世の中の人に知ってもらいたい。もっとたくさんの人に使ってもらいたい。もっと「浅野」の名を広めたい。日に日に強まるそんな思いの先には、いつも「400年」という数字があった。そうした思いもあり、浅野の太鼓のキャッチフレーズを「この道四百年」と定めた。社業の実績をアピールするとともに、自分自身を鼓舞するキャッチフレーズでもあった。

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 そして2009年、創業から数えて400年の節目がついにやってきた。二度と遭遇することのない、400年という道しるべ。思えばなんと遠い道のりだったろう。皮革技術の後進地だった加賀藩に対し、先進技術の伝導と産業振興を目的として先進地の播磨から遣わされた左衛門五郎と次郎の熱意。それから400年にわたる代々の紆余曲折。そしてようやく大太鼓シェアナンバーワン企業として国内随一の太鼓メーカーと認知されるようになった現在の感謝。さまざまな思いを包含し、6月、1日から5日まで、「浅野の太鼓創業四百周年記念事業」を挙行した。

 太鼓展示会をはじめ、太鼓コンサート、屋外ミニライブ、各種の太鼓ワークショップ、大抽選会、模擬店、そしてホテルの宴会場では祝賀の宴。宴には昼夜に分けて200名以上の顧客がかけつけてくださり、ここでも余興として国内各地のさまざまな太鼓芸が披露された。5日間にわたるどのイベントにも人々の笑顔があふれ、私はただただ嬉しかった。有り難かった。その大きな感謝を八百万の神々に報告すべく、社員全員で伊勢神宮に記念参拝したのも、今は懐かしい思い出となっている。

<概要>

本コンテストは、世界に向けて和太鼓芸能を発信できる人材の発掘・育成を主眼とするものです。優勝者には賞金または海外派遣助成費を提供。また、ワークショップも同時開催し、太鼓展示や情報コーナーを設置するなど総合的に和太鼓を学べる複合型イベントです。

<コンテスト要項>

  • 部門/応募資格 
  • 大太鼓部門 高校生以上 

・ 組太鼓部門(編成12名以内)①一般の部 ②青少年の部(小学生以上中学生以下)

  • 各賞/各部門最優秀賞1、優秀賞1、敢闘賞1。

大太鼓部門、組太鼓部門一般の部最優秀賞には賞金もしくは海外演奏派遣助成費を贈呈。組太鼓部門青少年の部最優秀賞および各部門入賞チームには和太鼓贈呈

 これは2002年にスタートした『東京国際和太鼓コンテスト』の開催概要と、募集要項、上位入賞者への表彰内容だ。今でこそさまざまな団体が太鼓のコンテストやコンクールを実施しているが、我々がこの事業を始めた2002年当時はこうした太鼓の競技会は皆無だった。「我々」とは、3年前に設立した財団法人浅野太鼓文化研究所と、この企画に賛同し共催・協力をいただくことになった東京新聞。1990年代以降も引き続いて上昇線を描いていた太鼓人気をさらに活発化する目的で、打ち手が演奏技術を競い、研鑽に意欲を燃やす手段として、世界中の誰もが参加できて各自の演奏レベルが実感できる太鼓コンテストはうってつけと考えたからだ。予想通り、第1回の開催を告知すると、太鼓関係者の間ではコンテストの話題でもちきりとなった。およそ3カ月の応募期間を経て、応募いただいた総数は200団体以上となった。予想以上の嬉しい反応だった。

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 コンテストでは、太鼓のワークショップやプロ演奏家のコンサートを盛り込んだ『和太鼓カレッジ』を同時開催。さらに2006年からは特定のテーマを設けて太鼓界の重鎮が演奏披露する『青山太鼓見聞録』を加え、太鼓を体験・チャレンジ・鑑賞できる"太鼓の総合イベント"『TAIKO JAPAN』を、会場となった東京の青山劇場がクローズする2013年まで継続した。コンテストで高位入賞を果たした挑戦者の中には、その後プロ奏者となって現在も活躍している打ち手がいるのは大きな収穫といえよう。

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 翌2003年、ケヤキの植林事業を開始。名づけて『夢の木植林計画』。太鼓の原木として最適なケヤキが年々入手困難となっている状況は以前記したが、ただ手をこまねいて悲観してばかりでは道は開けず、まず自分たちができることを始めようと思い立った事業だった。能登半島に80,000坪の山林を買い求め、社員総出で毎年ケヤキの幼木を植えた。1年に30,000本。社員たちは慣れない山仕事に戸惑いも見せていたが、いざ植林を初めてみれば、まるで大人の遠足。昼休みには、炊事班が現地で味噌汁を調理。ひと汗かいた後にみんなで食べた弁当の美味しかったこと。社員間のコミュニケーション向上にもひと役買ったように思う。幼木を植えても太鼓を作れるほどに成長するのは200年も300年もかかるのは承知のうえ。だが、200年、300年先に自分たちが植えたケヤキが太鼓になることを思うと、胸がふくらむ。ゆえに「夢の木」。この事業も10年間にわたり継続、2013年まで計30,000本のケヤキを植え続けた。

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 1999年、もう一つ立ち上げた大きな事業が、財団の設立だ。

 基幹の太鼓製造業と並行し、太鼓を核とした文化活動機関を設けて浅野太鼓の事業体の両翼とすべく、太鼓界初の非営利目的法人『財団法人浅野太鼓文化研究所』を設立。「太鼓の演奏・普及活動」「演奏指導」「太鼓関連書籍の出版」の三つの要素を事業の柱とし、太鼓文化のさらなる振興と発展のためにさまざまな活動を遂行するのが目的だった。

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 まず一つ目の「太鼓の演奏・普及活動」では、大型バスを改造し、後部座席を外して大小の太鼓を積載、焱太鼓とともに全国の学校や施設を訪れて太鼓教室や演奏実演を展開。二つ目の「演奏指導」として、「大太鼓教室」ゃ「親子太鼓教室」など、太鼓の種類や受講者の条件などを踏まえて各種の太鼓教室を20種類以上主宰。三つ目の出版事業では、10年前に創刊した太鼓専門情報誌『たいころじい』に加え、太鼓初心者用の入門書や太鼓に関する解説書など、14の指導書や専門書を刊行。その中の1冊『太鼓という楽器』は2005年、(社)日本図書館協会の選定図書に指定された。

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 一方、太鼓製造の面では、2000年、かねてからチャレンジを目論んでいた『グッドデザイン賞』に応募。この賞は公益財団法人日本デザイン振興会の主催により毎年開催される日本で唯一の総合的デザイン評価であり、太鼓業界では手つかずの分野だった。"太鼓"といえば形が決まっているように思いがちだが、私はまだまだデザインの余地があると考えていた。以前から密かに意匠をあたためていた新型の太鼓『楽鼓』は、ケヤキの胴に美しい木目模様を浮かび上がらせた締太鼓で、胴の中央部がゆるいカーブを描いてややくびれており、従来の締太鼓に比して高級感が豊かで工芸的な外観を特徴とした。我ながら会心のデザインだった。初めての応募で『楽鼓』は業界初のGマーク受賞を果たし、続いて翌2001年、大型の団扇太鼓に一枚革を張った『月鼓』、さらに2003年『かつぎ桶太鼓21世紀モデル』が受賞。2015年には鼓童との共同開発により、桶胴太鼓の両面の革を締めるロープの締め具合に応じて自在に音程調律が可能な『調律桶太鼓 奏』を応募。その結果、『2015年度グッドデザイン賞』に加え、すべての応募作の中でひときわすぐれた100の製品に贈られる 『グッドデザイン賞BEST100』、そしてグッドデザインに選ばれた中小企業の対象の中で、とくにすぐれた作品に贈られる『ものづくりデザイン賞』(中小企業庁長官賞)の、3冠をいただいた。

昭利の一本道 [21] 青少年層への太鼓の広がり

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 1999年3月、石川県川北町で第1回日本太鼓ジュニアコンクールが開催された。2年前に『全日本太鼓連盟』を法人化して設立された『財団法人日本太鼓連盟』の主催によるもので、次代を担う子供たちの健全育成およぴ日本太鼓の後継者育成を図るための全国コンクールという位置づけだ。出演団体は全国の県大会で優勝した高校生以下の代表チームで、第1回では全国34のジュニアチームと、保育所の幼児チームや輪島の『御陣乗太鼓保存会』など4団体の特別出演を合わせて38の団体が出演。以後、同コンクールは現在まで毎年おこなわれ、5年に一度は最初の開催県である石川県が会場になっている。

 また同じく1999年、アメリカ・ロスアンゼルスでは97年に続いて『第2回北米太鼓会議』が開催された。ロスアンゼルスの日米会館が主催・運営するもので、4日間の開催期間中に、大きく分けて太鼓ワークショップと、ディスカッション・セッション、そしてコンサートが開催され、アメリカはもとより、カナダ、ドイツ、日本などからも幅広い世代の太鼓愛好者が参加した。北米では1968年に長野県出身の田中誠一氏が『サンフランシスコ太鼓道場』を開いて以来、日系人の間で急速に和太鼓が盛んになり、以後、太鼓会議も現在まで2年ごとに開催されている。

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 一方、この年、国内でも大きな動きがあった。今に言われる『平成の大合併』の始まりだ。合併の目的は、市町村の行財政基盤の強化と行政の効率化であり、政府は合併特例債や合併算定替をはじめとする各種支援策を講じ、以後10年間にわたって総力をあげて合併を推進した。その結果、1999年には全国に3232あった市町村が、2014年4月には1718に凝縮されていた。

 こうした現象は、太鼓界にも少なからぬ影響を与えた。市町村が減少したことにより、自治体主導の太鼓関連イベントが淘汰され、多くの太鼓団体や地域活動が発表の場を失った。それにともない太鼓そのものの普及も鈍化し、拡大の一途だった太鼓文化の裾野に翳りが現れる気配を感じるようになった。そのような危機感に対応するかのように学校教育の指針となる『学習指導要領』において、小・中学校で太鼓などの邦楽器を履修することが義務づけられたり、高校のクラブ活動に太鼓部が奨励されたりして、青少年層に太鼓が浸透する機会が増えた。しかし、それらの成果が現れるのは数年後のことであり、さらに少子化や教育現場における太鼓の指導者不足などの問題も生じている。

昭利の一本道 [20] 一歩、一歩ずつ

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 1977年(昭和52)、府中の大國魂神社二之宮に口径6尺2寸(約1.9m)の日本一(当時)の大太鼓を納めたことは前に記した。それ以来、我が社には全国の神社や観光施設、太鼓団体などから大太鼓の注文が相次いだ。口径5尺(約1.5m)以上の太鼓だけでも主なところで、明治神宮の5尺、霧島九面太鼓の5尺、近藤産興の6尺5寸、大國霊神社御先払太鼓の6尺6寸、高山まつりの森7尺と6尺9寸、大國霊神社三之宮の6尺、稲荷森稲荷神社の6尺など、今思い出しても、我ながらよく製作したものだ。そして1994年(平成6)、東京の芝閒稲荷神社に5尺2寸の大太鼓を奉納。その製作の様子がテレビ番組『技ありニッポン!』で全国に紹介された。この番組は日本各地のさまざまな分野の職人たちを訪れ、たぐいまれな技術や作品を紹介するもの。撮影にあたってはおよそ2週間にわたり制作クルーが早朝から夜半まで入念な取材を行い、太鼓の製作工程をつぶさに収録。撮影が終わるころには職人たちとも打ち解け、すっかり現場にとけこんでいた。おかげで放映された番組はドキュメンタリーでありながら、ほのぼのと血の通ったあたたかさが感じられた。もちろん反響も大きく、全国からさまざまな激励が寄せられた。この番組によって浅野太鼓が全国区の企業に一歩近づいたことは間違いない。

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(写真上:高山まつりの森)

 翌95年1月17日。阪神淡路大震災発生。この地域には顧客や知人が多く、テレビで現地の惨状を見るにつけ安否が気遣われた。幸い訃報は届いてこなかったものの、次第に明らかになっていく被害の大きさを知るにつけ胸が痛んだ。だがこの震災を契機に、たとえば神戸の『和太鼓松村組』を筆頭に被災地慰問を目的としたいくつかの太鼓チームが結成され、多くの被災者を元気づけたことで、あらためて「太鼓の力」、いや「太鼓の底力」を実感した。

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 96年11月、ささやかな私設ホール『浅野−EX』を自宅敷地に開館。太鼓にこだわらず、これまで培った各界の人々との人脈をいかし、文化的な交流の場をつくりたかった。オープニングでは現代美術作家で現東京藝大学長・日比野克彦氏によるペインティング作品群を展示。『仮に棲むものたち』のタイトルで、キャンバスのタテ2.12m、ヨコ1.675mの大作10点を3方の壁面に設置。およそ1カ月にわたる展覧会に続き、インテリアデザイナー・内田繁氏と金沢の陶芸家・大樋年男氏とのコラボレーションによる茶室展示と茶会『茶の湯の現代』、アメリカのビデオアーティスト・ナム・ジュク・パイク氏のインスタレーション『NAM JUN PAIK』などを次々に開催。変わったところではファッションデザイナー・早川タケジ氏による歌手・沢田研二の舞台衣裳展なども開催し、これらの催事によりさらに新しい人脈が開けた。それもひとえにホールの運営を一任した現浅野太鼓文化研究所理事・小野美枝子の"こわいものしらず"の奮闘によるところが大きい。感謝している。 (写真右上:茶室展示)

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(写真上:ナム・ジュン・パイク展)

昭利の一本道 [19] 道しるべとなった1993年

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1993年は私にとって一つの記念碑的な年だった。

 まず一つ目は、山本寛斎さんとの出会い。寛斎さんという人物にはその数年前から知己を得ていたが、私の「イベントプロデューサーの師」としての寛斎さんとの出会いは、まぎれもなく1993年だった。その約1年前の1991年12月、ソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱してロシア連邦として成立した。その生まれたてのロシアで、経済改革などによる混乱のまっただ中にいたロシアの人々を元気づけようと、寛斎さんは「人間賛歌」をテーマにした大イベント「ハロー! ロシア」を企画した。会場は、モスクワの赤の広場。

 ファッションデザイナーの寛斎さんだからこそのファッションショーを中心としたイベントに、静岡の「三ヶ日手筒花火」、福島県の「相馬野馬追」騎馬隊、和太鼓には「炎太鼓」が出演させていただいた。炎太鼓の出演については事前に寛斎さんご自身が3度ほど松任に足を運ばれ、演奏レベルを確認。当時、炎太鼓は「女の太鼓」を意識した艶っぽい打ち方を売りにしていたが、寛斎さんはそうした打法をきっぱりと拒否。ただストイックに筋肉の美を見せる演奏を求められ、ようやく三度目の来県で出演OKのGOサインが出た。もし、あの時に出演を拒まれていたら、私と寛斎さんとの関係はもっと淡々としたものになっていたかもしれないと思うと、今思い返しても冷や汗が出る。寛斎さんの期待に沿うため頑張ってくれた炎太鼓に感謝だ。

 そんな経緯を経て向かったモスクワ。現場での寛斎さんはただただパワフルに動き回っていた。ショーの進行を組み立て、ステージ設営や音響・照明の指示を出し、モデルのオーディションや、現地の軍隊を黒子として調達したのも寛斎さんの指揮。本番の6月5日にはMCまで担当し、躍動感に満ちたショーにはおよそ12万人の観衆がつめかけた。そうした寛斎さんの姿に間近に接し、私はイベントのノウハウを逐一記憶に刻み込んだ。さらに2000年の「ハロージャパン! ハロー21! INぎふ」(岐阜県長良川競技場)、2004年KANSAI SUPER SHOW「アボルダージュ~接舷攻撃~」(日本武道館)、2005年日本国際博覧会 愛・地球博 オープニングイベント「とぶぞっ! いのちの祭り」(愛知 愛・地球博 長久手会場)、2007年KANSAI SUPER SHOW「太陽の船」(東京ドーム)、2010年KANSAI SUPER SHOW 「七人の侍」(東京 有明コロシアム)、2017年日本元気プロジェクト2017「スーパーエネルギー!!」(六本木ヒルズアリーナ)と、多くのショーに太鼓を起用してくださった。そしてなんと、2019年の日本元気プロジェクト2019「スーパーエネルギー!! 」(六本木ヒルズアリーナ)では、寛斎さんがデザインしたジャケットを着た私がモデルとなってランウェイを歩くという思いがけない体験までさせていただいた。これら一つ一つの経験の積み重ねがなければ、今、曲がりなりにも「イベントプロデューサー」を肩書きの一つとする私はいなかったかもしれない。

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(上記写真右:会場まで足を運んでくれた母)

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 寛斎エネルギーをたっぷり吸収し、わくわくしながら帰国した翌月。胸の熱気もさめやらない7月25日、前年の石川国民文化祭の太鼓イベント「ふる里の響き太鼓祭り」から生まれた太鼓コンサート「BEATS OF THE LIFE 壱刻壱響祭'93 リズムの生誕/生誕のリズム第1回を開催した。会場は松任総合運動公園に設けた野外の特設会場。出演は、当時、実力No1といわれた「時勝矢一路」、福井の「はぐるま太鼓」、兵庫の笛の名手高野巧、長野県の「水芭蕉太鼓」、ジャワのガムラン・グループ「ダルマ・ブダヤ」、「三ヶ日花火保存会」「炎太鼓」など約200名。スタッフは熱意だけで集まってくれたボランティア総勢160名。客席の設営や会場各所のサイン、受け付け、観客誘導、食事のまかないなど何もかもが手づくりで、誰もが初めて体験する運動会のようにはしゃぎ、あちこちで笑い声が起こっていた。この第1回目の集客は約3500人。大成功だった。嬉しかった。有り難かった。人の力、熱意の力、企画の力、勢いの力、ご支援の力、そして太鼓の力と、いろんな力の相乗を実感したコンサートだった。これが今年2,9回目の開催を迎える「白山国際太鼓エクスタジア」の原点であり、この時の運営態勢は30年が経過した現在まで引き継がれて、今も多くの皆さんに支えられ見守られている。

 そして1993年の三つ目の心のモニュメントは、林英哲さんの「第43回ベルリン芸術祭」への出演だった。芸術祭はドイツの首都ベルリンで、音楽、演劇、パフォーマンス、舞踊、文学、造形芸術などの分野で、一年を通じて展覧会や音楽会が実施されている。その中の一つである音楽祭は、ベルリン芸術祭における国際的なオーケストラ・フェスティバルであり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共催で行われている。最終日に出演された英哲さんは、一昨年に他界された東京藝術大学副学長だった松下功先生の作曲による、ベルリン芸術祭委嘱作品「飛天遊」をベルリン・フィルの若手メンバーで構成された「シャルーン・アンサンブル」と共演。世界初演の作品は雄々しく伸びやかで生命力に満ち、日本の太鼓がこうした場で堂々と演奏される時代になったことを、太鼓に携わる身として言葉にならない感銘を受けたできごとだった。9月23日だった。

 

 なお、日本国民の一人として、心よりの祝意を捧げた皇太子徳仁親王、小和田雅子のご成婚も、この年の6月9日だった。

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 1992年10月24日から11月3日までの11日間、石川県の21市町村を会場に、第7回国民文化祭が開催された。44の事業が実施され、全体を象徴するキャッチフレーズは『伝統と創造』。そのフレーズがもっともよく似合うと自負しているのが、ここ松任市(現在の白山市)で行われた太鼓のイベントだった。まさに、伝統と創造のせめぎあい。伝統を受け継いできた土着の太鼓と、自由な発想で常識を打ち破る創作太鼓の競演。それまでの国文でも太鼓に関わる事業はあることはあったが、これほど太鼓に熱い視線が注がれるようになったのは、この第7回の成功があったからこそと思っている。

 その2年前から松任市では実行委員会が組織され、着々と事業計画が進められた。「せっかく石川で国民文化祭が開かれるなら、太鼓という切り口でかかわりたい」と、私も意気込みだけで委員会に手を挙げた。プランはこれから考えればいい。幸い認められた太鼓事業のトップに松任市役所文化課課長の太田さん、事務局長に同じく文化課職員の徳井孝一さん(現松任博物館館長)、そしてプロデューサーには当時のNHKで肩で風切る勢いの敏腕演出家の和田勉さんが就任することが決定。そこに私を加えた4人の「ベストメンバー」は、日々、意見を出し合い、知恵を出し合い、時には脱線もしながら、胸を熱くして目標の11月1日に向かった。イベントの名称は『ふる里の響き太鼓祭り』。主催都市の特権で、全国47都道県から「これぞ」と思うチームを各1団体ずつ選抜。さらに8団体のプロチームを加えた計55組の太鼓団体を招聘し、いよいよ迎えた当日。松任総合体育館に設けた特設ステージでは、人気絶頂のデュオ歌手「ピンクレディ」」のケイちゃんに司会にお願いしていたものの、和田さんがアナウンス用シナリオの制作を忘れていたためケイちゃんが途方に暮れるなどアクシデントは数々あれど、そんな舞台裏はおかまいなしに会場は熱気沸騰。ステージの上では入れ替わり立ち替わりに出演チームが自慢の腕前を披露。その演奏時間は、なんと、のべ10時間にもおよび、熱心な太鼓ファンを根こそぎしびれさせた。今思い出しても、まったく豪快な太鼓の競演だった。

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 といっても、実はフタをあけるまでは、これほどの盛況を招く自信はまったくなかった。だが幸いにも和田さんの斬新な構成と、太田課長の太っ腹な裁量、そして両者の橋渡し役として奔走した徳井さんの機動力のおかげで、予想以上の成功を収めたのだった。それと、思いがけずに手に入った宝物が一つ。徳井さんの「せっかく松任で太鼓のイベントをやるのだから、松任にちなんだ太鼓の曲を作ったらどうだろう」の一言に背中を押され、現代音楽の作曲家、水野修好さんに曲づくりを依頼。書き下ろしていただいたのが地元に伝わる「松任ばやし」を発展させた「新松任ばやし」で、この曲は今も地域の有志によって受け継がれている。

 こうした体験を通じ「太鼓にはこれほど多くの人の心をつき動かす力がある」と、あらためて思い知った。この思いはその場にいた多くの人に共通していたようで、翌年3月、松任市の新たな和太鼓芸能の可能性を探るための研究グループが、徳井さんを中心として活動開始。そして7月、今に続く「白山国際太鼓エクスタジア」の前身「壱刻壱響祭」の第1回目が開催されることになったのだ。

 奇しくも、明2023年、石川県は県として2度目の開催となる第38回国民文化祭の会場となる。その中でここ白山市のシンボル事業とされたのが、第7回での「ふるさとの響き太鼓祭り」から生まれた「白山国際太鼓エクスタジア」とは、誰が予想しただろう。まことに嬉しく有り難い巡り合わせだ。エクスタジアのファンの皆様も含め、これまでご30年にわたって応援してくださった関係各位に心からの感謝をこめて、今回も全力で取り組みます。

昭利の一本道 [17] かつぎ桶太鼓の誕生

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 今や、かつぎ桶太鼓が全盛だ。30年ほど前には予想もしなかったことだ。かつぎ桶太鼓とは、細長く裁断したスギの板材を桶のように円柱状に組み、竹のタガで締めて胴とし、その両端に一枚革を当ててロープで締めた太鼓だ。ゆえに桶の胴の太鼓。じかに床に置いて打ったり、台に据えて立奏したりするが、今の主流はストラップを使って肩から吊り下げ、パフォーマンスを交えながら演奏するスタイルだ。
 かつぎ桶が世に広まるきっかけとなったのは、1990年、当時鼓童のメンバーだったレナード衛藤さんが作曲した『彩』の出現だった。この曲が初めて舞台で演奏された時、桶胴太鼓を肩から吊り下げ、自在に動き回りながら細かいリズムを連打する姿は、観客に新鮮な衝撃を与えた。太鼓は据え置くものという常識から解き放たれた、自由な太鼓の姿がそこにあった。
 だが、その前に、初めて桶胴太鼓をかついで動き回りながら演奏したプレイヤーがいる。レナードさんと同じく、当時の鼓童メンバーだった富田和明さんだ。85年、鼓童は初の『親子劇場公演』ツアーに出ることになり、演出をまかされたのが富田さん。前向き思考の富田さんは、何か新しい趣向のオープニングを、と考えた末、肩から吊った桶胴太鼓をたたきながらロビーから入場。リズムに合わせてツーステップで通路から舞台に上がり、5人の奏者が動き回りながら演奏を終えたら、またツーステップで退場するという演出を考案。曲名はそのものズバリの『縦横無尽』。観客は初めて見る演奏方法に一瞬あっけにとられたものの、躍動感のある雰囲気が大ウケだったとか。正確にはこれがかつぎ桶スタイルのデビューで、そのスタイルを取り入れたのが、前述のレナードさん。青森県弘前に伝わる『お山参詣』と「西馬音内盆踊り」の演奏スタイルとリズムにヒントを得た『彩』で韓国のサムルノリに使われるチャンゴとジョイントし、アクティブさと音楽性を併せ持った〝かつぎ桶奏法〟を確立した。 
 以来、かつぎ桶は急速な勢いで普及した。軽量・可動型によるパフォーマンスの多様化や軽快な音色、両面打ちに見せる技巧の美しさ、入手しやすい価格帯などが魅力だったと思われる。そして今やかつぎ桶は一つのブームを築き、和太鼓の舞台にかつぎ桶の演目は定番といえるほどになった。
 桶胴太鼓といえば、かつてはほとんどが祭り用だった。中でも東北や北陸の祭りには大小の桶胴が使われ、たとえば東北なら青森の『ねぶた』や弘前の『ねぷた』『お山参詣』、北秋田の『綴子大祭』、盛岡の『さんさ踊り』、岩手・宮城にまたがる『鹿踊り』など。北陸では今も伝わる農耕行事『虫送り』になくてはならない太鼓だ。

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 さらに70年の大阪万博で全国の郷土芸能が上演されたのを契機に、各地の町おこしや村おこしの手段として、地域に埋もれていた祭り太鼓や民俗芸能に目が向けられるようになった。80年代になると、地域や伝承にとらわれることなく太鼓を音楽の一つのジャンルとして取り組む〝創作太鼓〟のグループが各地で産声を上げ始めた。とくに威勢がよかったのが北海道登別において大場一刀さん率いる『北海太鼓』で、その影響を受けた周辺地域の太鼓グループからも大量に桶胴太鼓の注文が舞い込んだ。とりわけ口径2尺5寸、長さ4尺の太鼓に注文が殺到し、連日のように松任駅から北海道行きの貨車に太鼓を積み込んだ日々が思い出される。 (写真:「たいころじい 22巻」より)

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 また、革や木材についても研究を進めた。まず革については、それまでの太鼓は長く打ち続けると革が緩み、90分の舞台をもたせるのがせいぜいだった。「なんとかしてくれ」と太鼓を持ち込まれるのが歯痒く、長時間の演奏にも耐え得る太鼓をつくろうと強く思った。太鼓職人に対しては昔から深い差別意識があり、どんなに頑張っても「なんや、太鼓屋か」と軽くあしらわれた。そんな風潮も悔しく、どこの太鼓屋さんにも負けない商品をつくって浅野太鼓を全国区にしたかった。今思えば、この悔しさがすべてのバネだった。そして生皮の処理から、牛のどの部位の皮を使うか、革を張る際の仮張りと本張りの工夫など、昼も夜も考え続けた。(右写真:日経広告手帖より)
 木材については含水率や、気候や地域の違いによる収縮率にこだわり、革の緩まない太鼓をつくるには、木材の乾燥度合いが重要という結論に至った。数年後に乾燥機メーカーの力を借りて、ハイブリッドドライヤーを共同開発。木材の含水率9%を維持し、硬い胴と強い革を用いることで、革が緩まない太鼓づくりの技術を完成した。
 ほかにも舞台での存在感を高めるために、長胴太鼓の胴に取り付ける座金と釻のデザインに、人間国宝の刀匠による鍔の形にヒントを得て、まったくオリジナルの唐草模様のデザインを考案したり、それまでは鋲の部分で切り落としていた革の端を巻耳にしたりなど、新しい意匠の太鼓を生み出すことに夢中になっていた。

昭利の一本道 [16] 太鼓への追い風を感じて

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 1988年(昭和63)は、日本という国にとっても、浅野太鼓にとっても、躍動感に満ちた年だった。まず日本の動きでは、本州の青森県今別町と北海道知内町を結ぶ海底トンネル大工事が竣工し、当時としては世界一の長さを誇った青函トンネルが3月1日に開通。次いで3月17日、球場やホールなどを備えた日本初の全天候型多目的スタジアムの東京ドームが開場。さらに4月10日、本州の岡山県倉敷市と四国の香川県坂出市を結び、鉄道道路併用橋としては「世界一長い鉄道道路併用橋」としてギネス世界記録にも認定された瀬戸大橋が開通した。

 それらのインフラ整備と肩を並べるように、文化的イベントとして『なら・シルクロード博覧会』『瀬戸大橋架橋記念博覧会』『ぎふ中部未来博覧会』などが相次いで開催。また当時の竹下総理のもと、バブル経済の中で全国の市区町村に対し地域振興のために1億円を交付した政策「自ら考え自ら行う地域づくり事業」(通称: ふるさと創生一億円事業)が翌1989年にかけて行われた。この地域振興策によって、太鼓で「町おこし・村おこし」をしようと各地の自治体が続々と名乗りを上げ、我が社は全国からの注文によって未曾有の忙しさとなった。今思えば、まさに「太鼓への追い風」のまっただ中に立っていた。

 そうした活気は私自身の細胞も活性化させ、毎朝4時には起床して現在進行形の目標に向かってフル稼働した。まず2年前から構想していた『太鼓の里』づくりは、「1.最新の設備を備え、かつ誰でも見学できる安全な工場の整備」「2.世界の打楽器を展示する資料館の建設」「3.宿泊も可能な太鼓練習場を備えたショールームの開館」という3本柱を策定。すでに前年には新工場が完成し、太鼓業界としては画期的な省力化と増産システムを実現していた。そしてこの88年9月1日、続く2本目の柱、『太鼓の里資料館』をオープン。白壁となまこ壁を組み合わせ、日本の伝統建築である土蔵をイメージした館内には、打楽器のルーツがあるアフリカをはじめ、アジア、中国、アメリカ、オセアニアなど、世界の打楽器数百点を展示。フロア中央に口径6尺の大太鼓を据え、入館者が見上げるような大きな太鼓を自由に打てるようにした。そしてこの2年後、3本目の柱である練習場のあるショールーム『新響館』を開館し、太鼓の里の全容が整った。

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(写真右より: 炎が打つ「大和」、資料館内のガムラン、資料館内)

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 その一方、資料館のオープンに先がけること1カ月半前の1988年7月15日、『太鼓の里』というハード構築に対してソフト面での新規事業もスタート。これも世界で唯一、太鼓に関する情報を集積した情報誌『たいころじい』第1巻を発刊した。というのも、1970年に佐渡で旗挙げした『佐渡の國鬼太鼓座』の創設に深くかかわった民俗学者の宮本常一が著書『忘れられた日本人』の中で述べていた「記憶されたものだけが、記録にとどめられる」という一節がなぜか忘れられず、いつのまにか「記録されたものしか、記憶にとどまらない」という私なりの確信に変わっていた。そして今歩き始めた太鼓文化を次の世代に伝えるには、「活字だ!」。活字によって情報が伝わり、人と人の思いが結ばれ、過去と現在、未来がつながる。本づくりにはまったくの素人だったが、幸いにも小野美枝子という信頼できる人材に編集を委ねることができ、以後『たいころじい』は2014年、第42巻まで続くことになる。 

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 さらにもう一つ、女性だけの太鼓チーム『炎太鼓』が始動したのもこのころだ。当時、太鼓を打つ女性は少数いたものの、大太鼓に限ってはほぼ男社会だった。だが、女が大太鼓を打ったら、どんな舞台ができるだろう。そう思ったら矢も楯もたまらず、折しも太鼓教室に通ってきていた地下朱美に声をかけた。二つ返事で話に乗ってきた地下は友人を誘い、まもなく二人だけのチームを結成。現在、『焱太鼓』の表記は『火』の文字を三つ重ねた『焱』だが、この時はメンバー二人ゆえに『火』が二つの『炎太鼓』だったのも、今は懐かしい。

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 ふと全国を見回せば、今に続く太鼓イベントが、あちこちで産声を上げていた。佐渡では8月15日、鬼太鼓座解体後に誕生した『鼓童』が、佐渡島小木町に正式に居を定めた「開村記念コンサート」として第1回の『アース・セレブレーション』を開催。岩手県では10月16日、『陸前高田全国太鼓フェスティバル』第1回が行われ、2011年の東日本大震災で被災した際も愛知県に会場を移して実施、コロナ禍以前の2019年まで毎年継続されてきた。
(右写真:1998年の第1回アースセレブレーション初日)